2015年11月20日金曜日

ハイカーのみが知るセカイ

2010年、AT(エーティー。アパラチアン・トレイルのこと)を歩いていた時の話。
自分は街を後にして、湿地帯に入ったところだった。草むらの中、泥と水たまりがそこここに見られる。そして、ハイカーを泥から守るためか、湿地をハイカーから守るためか、とにかく丸太が通路として延々と渡してあった。
丸太は肩幅よりちょっと広いくらいに2本を並べてつなげられ、一応見た目は歩道のようだ。両方に片足ずつ、では幅が広すぎるし、上の面もラフにだが削って少し平らにしてある。これは、どちらか一本の上を歩いて、「対向者」とすれ違えるようにできているのだ。
折しも、向かいからハイカーがやって来た。せかせかと急ぐ風に歩く、ちょっと小太り(失礼)な男。自分は目が悪いが、勝手に彼は額に汗をかいているだろうと思った。
お互いに進んでいるからあっという間に距離は縮まり、さあすれ違うというところまで来た。自分はまあまあ大きめのバックパックを背負っていた…街を出たばかりだ、食料満載である…ので、体をかしげるというか、ひねって「橋の外側」にバックパックが少し出るようにした。江戸仕草ならぬハイカー仕草だ。そんなのどんな本にも載ってない(と思う)けど、その状況ならそうするのが自然だろう。
すると彼も体をひねりながら、高速ですれ違いをかけてきた。もうお互い、減速もしない。しかし、こんな時でも一言なりと挨拶を交わすのがアメリカの流儀である。
果たして、行き違いざまに彼から言葉をかけてきた。

「ユ・スルー?」
「ヤ」
「クー」

クールの「ル」も聞き取れないほど短く言い捨て、彼はそのまませかせかと歩み去って行った。だがこちらはふと気がつき、愕然と立ち止まって彼の後ろ姿を見送った。
彼は「お前はスルーハイカーか」と聞き、こちらはそうだと答え、彼は「いいねえ」と言って去ったのだ。ホンの2秒ほどだが、我々は完全にお互いを理解していた。
自分は彼がまだ明るいのに街へと向かっていること、小さめの荷物、こざっぱりした格好などから、彼がデイハイクか、せいぜい2〜3日のハイクをしたのだろうと想像した。一方彼はこちらがデカい荷物を背負い、街を出たばかりの場所なのに薄汚れた格好(洗濯してもヨレヨレ感は無くならない)を見て、コイツはスルーハイカーに違いないと思ったのだろう。
さらに彼はいいねえ、と言った。アメリカなら、トレイル周辺なら尊敬されると思ったら大間違いで、スルーハイカーは往々にして奇人変人の類とみなされる。ロングトレイルの一部だけを自分のスケジュールでハイクする人たちを、スルーハイカーと比較してセクションハイカーと呼ぶ。本来トレイルの使い方、楽しみ方はそういうものであり、セクションの方が圧倒的多数であることを考えるとおかしなものだが、彼らはスルーハイカーへの羨望を持つ数少ない人種である。いいねえ、うらやましいねえ、いつか自分もやってみたいねえ!そういうセクションハイカーに、数え切れないほど自分はトレイルで会った。我々は「同好の士」なのだった。
2010年。日本でSNSと言えば「パソコンの前に座ってミクシィ」だった時代。アメリカでもまだ日本ブランドの折りたたみケータイが多く売られており、歩いている間にiPhone3が発売され、Androidは2.1くらいでほとんど市場に無く、スマホの王者はBlackBerryだった時代。自分は街に降りると図書館に寄り、しこしこと日本にEメールを書いて送っていた。誰とも「つながっている」感じは無かった。そして日本には、ロングトレイルを理解している友人も、家族もいなかった。誰も分かってくれない、誰ともつながっていない…自分は、孤独だった。
ところが初対面の男は、トレイルで顔を合わせただけで自分と世界を共有したのだ。何カ月もトレイルを歩くことが素晴らしいこと、うらやましいことだという世界。薄汚れた格好がむしろ誇らしく、ひどい天気も美しい景色も自慢話になる世界。ハイカーだけが、トレイルを歩いている奴らだけが知る世界。
あれから少し時間が経った。日本でもロングトレイルの認知度は急速に高まり、また友人とはスマホで簡単につながっていられるようになった。もう、ハイクに関して孤独を感じることは無い。
それでも、あの時自分が体験したような、一瞬で全ての価値観を共有できるようなことは「手のひらの中の世間」には見当たらない。
今でもあの世界はトレイルに、そして自分の心の中にある。



アメリカで最も多くのハイカーが訪れると言われるアパラチアントレイル(AT)。ハイカーたちは、ホワイトブレイズ(白い紋章)と呼ばれるペンキの四角を追い続ける。

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